写真をクリックすると大きくなります。

蚕糸関係の記念碑めぐり(4)

「明治三年日本最初の機械製糸場跡」記念碑

写真@ 「明治三年日本最初の機械製糸場跡」の記念碑
写真@ 「明治三年日本最初の機械製糸場跡」の記念碑

 この碑(写真@)は群馬県前橋市住吉町の国道17号線わきにあります。明治3年(1870)6月、前橋藩が招いたスイス人技師ミュラ−の指導によりイタリ−式の6人繰り木製繰糸機が作られ、この場所でわが国最初の器械繰糸が行われたことにちなんで、前橋市及び前橋商工会議所などによって昭和36年に建碑されたものです。
 ケンネルより掛け方式の繰糸がこのとき日本に初めて導入されました。機械といっても木製で大がかりなものではありませんでしたが、それまで糸枠を手で廻しながら座繰りしていたのに比べ、大変な技術革新でした。
写真A 錦絵「東京築地舶来ぜんまい大仕かけきぬ糸を取り図」(部分)猛斉芳虎画(1872)
写真A 錦絵「東京築地舶来ぜんまい大仕かけきぬ糸を取り図」(部分)
猛斉芳虎画(1872)
 翌4年に同じミュラ−の指導で東京築地に建設された小野組製糸所のイタリ−式製糸状況の錦絵「東京築地舶来ぜんまい大仕かけきぬ糸を取り図」(写真A)によりますと、一人の男性が手で駆動軸を動かし、その動力によって6人の女性が繰糸し、一人が3本の糸を繰っています。前橋製糸所もこれに似たものといわれ、2年半後に開業する官営富岡製糸場とは比べものにならない小さな規模で、設備も貧相きわまりないものでしたが、中央政府に先立って草高17万石の前橋藩が製糸機械化の先鞭をつけたことは、彼らの先見の明を示すものとして高く評価されています。
 明治5年の廃藩置県でこの製糸場も群馬県庁の管理に移され、さらに翌6年はじめには小野組へ譲渡されて、短い歴史が終わりました。
 錦絵「東京築地舶来ぜんまい大仕かけきぬ糸を取り図」(写真A)は3枚続きで、当時、三井と拮抗する地位にあった小野組の製糸場を描いたものとして有名ですが、これは技術史の面から見ても貴重なものです。場所は築地の入舟町。開設は明治4年4月で、前橋藩よりわずかに遅れていますが、前橋藩のものが6人繰りであるのに対し、小野組のものは当初から60人繰り(後に96人繰りとなる)と大がかりで、一応工場の形態を整えています。小野組では前橋藩から解任されたミュラーを雇い、設備や技術のすべてを彼に依存して築地の製糸場を作りましたので、規模が大きくなったほかは前橋のものと殆ど同じだったといわれています。
 この錦絵には「製糸機械は木製の三条繰り直繰式にして、運転は人力を以てす。煮繭及び繰糸釜は全部連釜装置なるも、火炉は煮繭一釜と繰糸二釜とを連結し、煮釜の下に焚火し、火力を繰糸二釜に通じ、而して煙を外部煙筒に発散せしむる方法にて、煮繭工一名と繰糸工女二名を一組となし、煮繭法は殆んど分業的なりき。製糸の用水は人力にて運搬し、小桶に汲み取りて用い、煮繭及繰糸湯の交換は柄杓を用いたり。生糸の抱合法は当時イナズマと称し、ケンネルの最も短き長さ六、七寸の装置なり。」という説明書がついています。
 この説明文から、煮繭工1名と繰糸工女2名とが一組となり、各繰糸工がそれぞれ3条の糸を引いている姿、起動軸の一端をクランクで力一杯廻している下駄ばきの男の姿、起動軸回転を増速歯車で大枠軸に伝え、この大枠軸回転をかさ歯車で上部の綾振装置に伝える構造、繰糸鍋と集緒器とケンネルを経て綾振装置の振手に導かれる糸条などがよく説明されていて、細かく観察しますと、この錦絵には当時の技術の特徴があざやかに描かれています。これらの設備はすべてが国産、ほとんどが木製で、異材は糸鉤、鼓車、その他の数点にとどまりました。
 この製糸場は明治6年6月に閉鎖されています。このように、前橋、築地ともに極めて短命でしたが、日本にイタリア式繰糸技術をひろめるもとになった点では、いずれも大きな足跡を残したといえます。

前橋残影の碑


写真B 前橋残影の碑
写真B 前橋残影の碑

 この碑(写真B)は、さきの機械製糸発祥碑より市の中央側に約百米ほど寄った広瀬川にかかる厩(うまや)橋のたもとにあります。座繰りする女性像にこの地の俳人・相葉有流の前橋残影の句「繭ぐるま曳けばこぼるる天の川」を刻んだ碑のわきに大きな繭型が鎮座し、燈柱には「さげ糸」(写真C)が懸けられています。この地がかつて生糸で栄え、市の発展の礎になったことを後世に伝えるため昭和56年に前橋市及び蚕糸関係団体によって建てられたものです。
 碑文には「この碑は、かつて前橋市発展の大きな礎となった生糸の町を象徴したものであります。明治維新後、当時の座繰製糸は、この広瀬河の豊かな水を源とした機械製糸や撚糸に発展し、その製糸は海外に輸出され、前橋生糸の名は世界に知られました。このたび広瀬川河畔緑地の整備とあわせて相葉有流先生の前橋残影の句とともにその歴史を刻み残すこととしました。 昭和56年9月 前橋市」と刻まれています。
 前橋は横浜開港の最も早い時期にここと結びつき、それを契機として糸の街として飛躍的に発展しました。明治2年(1869)には横浜に前橋藩直営の生糸売込み店を開き、同年にイタリア領事デ・ラト−ルが蚕糸業視察に前橋を訪れています。藩が直接商売に乗り出すのは全国的に見ても異例のことで、前橋藩がいかに蚕糸業に力を注いでいたかが窺われます。
写真C 「前橋残影の碑」脇にある燈柱の「さげ糸」
写真C 「前橋残影の碑」脇にある燈柱の「さげ糸」

前のページへ
次のページへ