第36回の発表者紹介

山崎 敏さん

最優秀賞 岩手県 山崎 敏さん (岩手県)目標を「見える化」し、一致団結!家族酪農

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・岩手県・岩泉町について
岩手県の沿岸北部の北上山地の中に位置し、本州一大きい町で面積は東京23区の1.6倍。内陸部と異なり、夏は涼しく、冬は暖かく雪も少ないので、酪農に適している。岩手県の酪農の発祥地と言われ、乳牛導入後123年になる。町内には第三セクター岩泉乳業があり、岩泉ヨーグルトが人気だ。

・就農するまで
酪農家の長男として生まれ、中学生の頃に共進会をきっかけに酪農に興味を持ち、将来は「俺が継ぐ」と決めた。岩手県立農業大学校では人工授精師、受精卵移植師などの資格を取得。卒業後は北海道・別海町の山田牧場で実習。酪農の基本をとことん学ぶことができ、今の経営の基礎になっている。一番の収穫は嫁さんを見つけたこと。早くパートナーを見つけることは大事だと思う。1年半の実習を終え、帰省後すぐに結婚。平成14年10月に酪農ヘルパーを兼務しながら就農した。

・山崎牧場について
30頭つなぎの搾乳牛舎は父が平成3年に建てた。子牛や分娩間近の初産牛は、隣の旧牛舎で管理し、3ヶ月齢以降の育成牛は公共牧場へ預けている。乾乳牛は近くの離農した牛舎を借りて管理し、つなぎ牛舎をフリーバーンにすることでストレス軽減を図っている。古い牛舎ばかりだが、この牛舎で最大限の収益を得ることを目標に取り組んでいる。
ヘルパーを辞めて本格的に酪農に従事するようになった平成19年、急激な飼料高騰にも関わらず乳価が低迷し、経営は日々厳しい状況だった。新たな投資は考えられず、飼料基盤も労力も限界があり、粗飼料を購入してまでの規模拡大はできなかったので、現状の施設規模を維持したまま、最大限の利益を得るということを考えた。

・土壌改良と粗飼料生産
就農当時はpH5を切るような酸性土壌が多かったが、普及員の指導のもと毎年石灰を100キロ投入し、これを10年間続けた。その結果土壌のpHは6前後となり、収量が増加し嗜好性も良くなった。除草剤は家族総出でスポット散布を行う。除草剤の節約にもなり収量低下もない。
昨年からトラクターにGPSを装備し、肥料散布が確実に効率よく実施できるようになった。
牧草はオーチャードとクローバーの混播で、基本的に若刈とし、3~4番草まで収穫する。若刈のため栄養価が高く、1番草を通年で給与、2~4番草を蛋白源として給与する。そのため配合飼料は最大7.5キロでも、1頭当たり年間9,500キロ前後の乳量を確保できている。濃厚飼料の給与量を控えることで、乳飼比は30パーセント以下。刈遅れの余った牧草は近隣の和牛農家に販売するので、粗飼料自給率は100%以上だ。

・繁殖戦略について
最近は受胎しやすい状態の見極めができるようになり、平均授精回数は年々減っている。年間約30頭の出産があり、限られた乳牛に何を受胎させるかは経営を大きく左右する。
基本的に、雌判別精液により後継牛を確保することが最優先。年間10頭ほどの後継牛が生まれれば、残りはF1、和牛で個体販売による利益を確保する。メス種による妊娠が年間7頭ほどなので、通常のホルス種9頭から3頭メスが生まれれば後継牛は間に合う。メス種は受胎率の高い未経産牛に積極的に授精し、後継牛の欲しい経産牛に通常のホルス種を、それ以外には、F1授精、和牛ETを実施している。

・乳房炎対策
体細胞数の測定カウンターを、平成21年に近隣の農家と共同で購入。経営が厳しい時期で、少しでも利益を確保するために体細胞数基準をぎりぎりクリアし、最大の乳量を出荷しようと考えていた。動機は不純だったが、乳房炎の低減に努めて体細胞数が低くなると、家族全員「悪い牛乳は出荷したくない。体細胞数をもっと良くしたい」という意識が強くなり、結果的にセルカウンターはあまり使わなくなった。この3年は体細胞数20万以下を毎月キープし、年平均でほぼ10万以下。昨年の検定成績では体細胞数7万以下が70%前後だ。乳房炎は月1頭出るかどうかで、廃棄乳はほとんどない。

・カウコンフォートについて
屋根は断熱材入りガルバリウムに張り替え、暑熱・防寒対策をしている。換気扇にガードを製作、設置し、風速アップを図っている。水道配管は口径を太くし給水量を確保。これも普及員の力で、自分たちで設置した。カラスやアブの侵入を防ぐネットを窓に張っている。以前、サルモネラ症が発症した事があり、飼槽通路では長靴からスニーカーに履き替え、感染拡大のリスク低減に努めている。

・一番の特徴、「見える化」を採用
就農当初、経営は低迷し家族は疲弊していた。特にデントコーンサイレージ作りは、台風やクマの被害、夏場の二次発酵による廃棄などストレスを感じていた。そこで平成19年から牧草作りのみに専念。育成牧場や堆肥センターを利用することで労力軽減も図った。生活に余裕が生まれ、何事も家族で前向きに考えるようになった。
そこで、普段の作業を「見える化」することにした。家族内に情報が共有され、誰でも同じレベルでどの仕事でもこなせる体制ができ上がった。具体的な経営目標も見える化し、向かう方向が明確になり、家族が一致団結するようになった。

・個体情報の「見える化」
実習先の奥さんを真似て、就農以降、繁殖データはもちろん、分娩時の病歴、助産状況、産後の処置内容などを細かくノートに記録している。自分がいない時でも、家族がノートを見て、分娩する牛の情報を把握できるので事故を最小限にすることができる。
牛が移動しても分かるよう牛名板を牛の前に設置している。受胎していない牛は発情予定日、乾乳した牛には分娩予定日の看板。発情の近い牛を牛舎内で把握できるので、家族全員で簡単に発情を見つけられる。

・作業の「見える化」
エサの給与順序、給与量を見える化し、誰でも同じように給与ができるので、飼養管理が非常に安定している。糞尿散布も特定の圃場に偏らないよう記録を残し、均一化するよう管理している。


・成績の「見える化」

牛舎の事務所内には様々な情報を「見える化」している。毎月の出荷乳量、乳成分は、過去と比較して増減が分かるようにし、家族全員が常に意識する。個体乳量、分娩予定日と産子の品種、エサの単価など必要なものはすぐ目につく場所に貼っている。
仕事の成果が常に見えることで、家族のモチベーションを維持できる。事務所では、見える情報をきっかけに指導者やお客さんとの話も深まり、より的確なアドバイスがもらえる。

・一番大切な、目標の「見える化」
毎年、年間目標を立てて事務所や処理室などに掲示し、家族全員で共有している。今年の目標は、出荷乳量32万キロ、死亡牛ゼロ、バルク乳量800キロの維持だ。
最も大事なポイントは、家族以外に「見える化」すること。事務所でお客さんがどこに座っても見えるように2ヶ所に貼っている。来客が気づくことで、家族が意識し、緊張感が生まれる。この目標は自宅の居間にも掲示している。子供に見られているのが何よりのプレッシャーだ。

・「見える化」を地域に広げる
地域の酪農部会長として関係者に同行し、乳質事故防止の巡回指導を行い、全農家に「見える化」を実施した。処理室に「乳質事故ゼロ」の目標を掲示し、大事故につながらないよう、自己廃棄する勇気を投げかけている。この取り組みは、他の地域でも普及し始め、少しでも乳質改善・乳質事故防止につながれば幸いだ。

・地域での活動について
数年前から地元小学校の出前教室を受け入れ、関係機関と協力して酪農理解醸成活動をしている。実際に牛に触れてもらうことで、「牛乳は、生き物からもらっているんだ」ということを少しでも感じてもらえたらと思う。
妻は、自ら会長を務める「岩泉うしあわせ女子部」という女性組織で活動している。ロープワーク実習によって頭絡づくりはすべて妻任せ。牛舎消毒実習の後は妻の指導のもと、私が牛舎内の石灰塗布を行った。女性の力で地域の畜産をもっともっと盛り上げてほしい。

・自然災害対策について
今年は各地で大きな自然災害があったが、私も過去2回、大きな災害を経験している。
東日本大震災では地区の一部が津波に飲まれ、長期間の停電が続いて搾乳できず苦労した。この経験から自家発電機を購入し、もしもの時に備えている。
2年前は台風の影響による大洪水で道路が遮断され、長期間の停電となり岩泉町は孤立状態に。私の牧場も停電で3日間生乳を廃棄したが、自家発電機のおかげで搾乳ができ牛の体調を崩すことはなかった。しかし仲間の酪農家の中には壊滅状態になるところもあり、岩泉乳業は工場がすべて浸水し、操業停止となった。
震災の時もそうだったが、多くの方々のご支援のおかげで復興に向かっている。岩泉乳業もわずか13ヶ月後には操業を再開し、岩泉ヨーグルトのファンもすぐに戻ってくれた。各地の被災者の方々も必ず復興することを信じて頑張ってほしい。

・今後に向けての決意
戦後、曾祖父が3.8ヘクタールの土地を手に入れ開拓。酪農を始めた祖父から父に引き継がれ、平成25年に私に経営移譲された。近隣の農家は減っているが、先人たちが築き上げてきた農村風景を守り、次の世代へ残したい。酪農を志して25年、多くの先輩方にお世話になり大変感謝している。これからは私が若い世代と共に沿岸の酪農を盛り上げていかなければならないという覚悟だ。
今後も、規模を維持しながらより質の高い地域に根差した経営を追求し、後輩たちの手本になるように頑張っていきたい。3人の娘の誰かがお婿さんを連れてくることに期待しながら、次のステップを考えていきたいと思っている。